#003

公衆電話

[付着するキュート、孫と杖と準チョコレート]

 シルクの刺繍糸のような右手を遠慮がちにヨレたフェンスに掛けたお年を召された男性が1名、居られる。長年大事に使われているのであろう杖を握るもう一方の左手は、絶妙な力加減で地面と押し合いへしあって、居られる。その視線の先端の広場にて、近くに催し迫る運動会or御遊戯会の演芸らしき練習に奮闘中のちびっ子達のソプラノの掛け声が、プリズムが、十六方へと抜ける。会心のキュートに秋晴れである。或る一点を見つめるその老爺の眼が野次馬や誘拐犯や魔法使いの眼ではなく、祖父の眼であるのは誰の目にも明らかだった。人の親の親であると、こうも神々しいのだろうか。その日はこの光の後味だけで終始恍惚な一日だった。又、自身の心底にまだ“人間の余地”を残し残されている女々しさを露呈する結果となると知りながらもキーボードを打っては打っては1匹、ここに照れている。
 人を感動させたり殺したりするのは実に単純な作為で可能だけれども、このように人を“ほわらかな”気持ちにさせるのはどう取り繕うとしても出来る代物でないと思ったりもする(※ある程度は作れるかもしれない、カワイイはつくれるように)。1年365日24時間絶えず緊張を持続させようと力む故の緊張を保有する私が〈SECOMかALSOKかSOSHITEか、いやはや〉正反対の心持ちから、そう思わなかったりもする。
 大都会をせせらと縫い抜ける小さな河川の夜泣きソングや、アニメチックな森の奥でふるふるの小動物に触れた時に似たような心触りを覚えるが、このヒューマンドラマ特有の感触とはやはり成分が異なる。例えるなら同じチョコレートではあるが、森永製菓と明治製菓とロッテと江崎グリコぐらい違う。加えて、そのどれもが美味しんぼで幸せなひとときに侵されてとろーんだが、待ち人が待ち人を想い作られた手作りチョコレートには到底敵わないし、別物として捉える方がずっと紳士的な気がする。しかし、我々はもう「比較」という常套手段を持ち出す本能からは逃れられない。実にヒトって野生的だぜ。下手に続けざまに例えたせいで余計散らかってしまった…。では、大手お菓子メーカーがもたらすスーパーサイヤチョコの放つααα波すら凌駕する“ほわらかん”とは、はて?
 ここでいう手作りのチョコレートは冒頭で御紹介した【孫をフェンス越しに見守る祖父の柔和な眼差し】に匹敵する。人と人が関与して初めて成立・完成するハートウォーミングな作品を“ほわらかな感じ=ほわらかん”と今日勝手に初めて呼んでみた。お孫さんの年齢から察するに4年物の“ほわらかん”ですね。今後、益々熟成され美味しくなりゆくこの“ほわらかん”の先を願って止まない。どんぐりっ子少年、君ならあの杖にだってなれるはずさ。


[柳葉魚を焦がす○○の秋、「あえて」と強がる、らぁっー!!の巻]

 食欲御座なりの秋、泥睡眠の秋、スポーツマン湿布にのっとられの秋、適量の自己顕示欲を欲する秋、芸術さんは引っ越しましたよの秋、裏をかいて紅葉散策の秋、裏の裏の表をかいて読書の…アッ気が付けばここ数年間で書籍を1冊もまともに読んでいない事態に気が付く。18歳以降、本に限らず有りとあらゆる文化的産物(音楽・映画・小説・漫画・アニメ・ファッション・アートetc)に対して極力意図して距離を置いてきた(その理由については非常につまらないのでここでは割愛する)。取り立ててその過ぎ去りし我が青春の日々を反省はしないが、称賛も出来ぬ。ならばと台所用洗剤買いついでに最寄りの本屋さんとVILLAGE VANGUARDへと立ち寄る。カモン活字。
 案の定、3冊の漫画を買って帰った。帰ってやったぜ。漫画も立派な本だと主張して読書感想文を見事書き綴った同級生Zに改めて賛辞を述べたくなった。漫画を開くのまでも随分と久しい気がする。そのうちの一冊に触れて以下に少々。
 羽海野チカ先生が描かれた『3月のライオン』の1巻を拝読する。簡単にあらすじを記すると、心に傷を負った17歳の将棋のプロ棋士である主人公がひょんな事から隣町に住む3姉妹と出会い癒され成長してゆく心がほぐほぐほぐれる物語です。この正当な引き出しを開けるのは自分でも超絶に意外だった。イヤらしさを感じさせない痛みあり涙あり笑いあり、そして何より3姉妹の底抜けのカタルシス(浄化)が正に“ほわらかん(本日早くも5回目)”なのだ。付随する後記によって、この作家さんが有名な『ハチミツとクローバー』の作者と同一と知り、激しく納得した。後日続けて2巻・3巻と購入する際気付いたのだが表紙がキュート過ぎるっ!!!1巻の表紙は主人公の男の子だから気付かなかったが、どうやら少女漫画らしい…これ迄自身によるカテゴライズが残念な邪魔の仕方をしてしまっていた事を猛省する。それでもこの時分はまだ無精髭を生やし脱走兵のコスプレをしたかのような小生が買うには少々恥じらいが残っておりました。次号が出るとき迄に僕、更生します。
 そして、どうにも私は猫が好きらしい。劇中にふくふくな(実際にそう形容されている)猫3匹が随所に登場するのだが、『生きる』に対して貪欲なのがたまらん。正に、「もまーっ」だ。余談だが、佐川急便よりもヤマト運輸を頻繁に利用してしまうのは恐らくこの感情に起因する。佐川急便関係者各位、ごめんなさい。黒猫に限らず動物や昆虫には幼い頃から一方的に好意を寄せていました。きっと『生』に対してブレや疑いのない態度・姿勢に今も変わらず憧れ続けているのかも知れませんね。何が君をそんなにも生かそうとしているのか、愛を知ったら分かるのだろうか。
 また、将棋で思ひ出されるのが、私が小学校3年生の時クラス内で空前の将棋ブームがあった。時同じくしてベーゴマブームも過熱していたので総じて第一次懐古ブームとして個人史に刻まれている。そういえば祖父と将棋を指した思ひ出もぽろぽろ、出る、あぁ、ぽろ、そうか、ぽろ、自らの経験した(してきた)感情が現在の感情のやりくりに深く関わってくるのは明瞭だ。そうしてたった今出来たてホヤッホヤッの【記憶*改】が、再びすぐ次の感情を大きく左右するのもどうにも間違いない。だから、温かくも時々熱い。だとしたら、また自己の事情を勝手に他者のお皿に盛り込み過ぎてしまった…(冒頭の目撃談参照)。この過剰な癖はあと60年ぐらいは治りそうもないかもしれないです。さぁ、モリモリ食べ野菜。
 因みに、この日に購入したもう2冊の漫画は、共に敬愛する漫画家・武富健治先生の作品集『掃除当番』と花沢健吾先生の『アイアム ア ヒーロー』の1巻です。いかん。折角冷まして置いた漫画熱が再び上昇し始めている。誰かふぅふぅしてくれ。思慮あるふぅふぅなら尚更してくれ。


[落穂を拾う貴族でありたい]

 どちらかと言えば本国において経済的貧困層に属する小生だが、軟弱な雨風ぐらいであればどうにか凌げる脆弱な屋根と壁があり、安価でも丈夫で長く着られるクオリティの衣服が安い心身を包み隠してくれて、明日の食料もその気さえあれば近場のスーパーマーケットやコンビニエンスストア等で買う事ができ“臭くない飯”にありつけそうで、殺伐とした部屋に彩りを添える程度の草花が手の平にある以上、多少驕りで高慢な言い分かもしれないが、ある種のノブレス・オブリージュ(貴族の義務)を果たすには十分な立場にいるのではないか?と自身に言い聞かせながら、ネジネジと働く毎日を誘発させている節が恥ずかしながら私の中にはあります。さもなければ2〜3日もせぬ内に落ち葉に全身全霊埋もれてミミズに散々玩ばれて股間に苔が生える猶予もなくカラスに啄まれるクライミライは不可避だ!戦闘力0.0001野郎なんです。そんな頑張らない屋の1日店長の私が、授かった自己の命の性能やそれを取り巻く動作環境を最大限利用し生活を謳歌しよう、それが最も『生きる』に対してロックンロールな態度だとマイクを通してアリーナ席へシャウトする事は間違ってもできないが、インターネットを通してルールさえ遵守すれば喚き散らす矛盾が許容されているこの時代がせめてもの救いでもある。
 また、命で思ひ出されるのは、羅針盤のデビュー・アルバム『らご』に収録されている「いのち」という曲のAメロ“ あの公衆電話の中で 首しめた ”だとする私の足下にはいつも陰鬱のシミが上目遣いで凄みをきかせているが、自宅と隣家の間に建設作業に約四半世紀を費やした馬鹿げた自社製の壁のせいでストレートに差し込むこれぞ日射しという日射しという積極的期待はまるでなくとも、耐え凌げば夜が夜がそのシミを消し去ってくれるかもしれないという消極的期待に今はすがる他ないのも代え難い事実だと白状します。また、その消極的期待を最後のカードにしながらも1983年の真冬なのに暖かかったあの日の分娩室で拾った聖なる注射針で、その病弊の壁の表面をこうして夜な夜な引っ掻き廻して踊っているのです。
 その上で【プラス×プラス=プラス】より【マイナス×マイナス=プラス】によって導き出された【プラス】の答えの方が胡散臭くて気持悪くてなんか好きなのには変わりがない。但し誤解の無い様に書き添えると、基本的には【マイナス】は少なくて済むのであれば少ない方が良好と考えている。至る所で「苦痛や悲哀が大きい(多い)方がその分快感や歓喜も大きい(多い)」類いの振り子の論理を耳にするが、その殆どが信用してもいい話だがあくまで“取り返しのついた人”のコメントであり条件付きであることを決して忘れてはならないと思う。「振り子が揺れ動いている」という非常にシビアな条件付きだ。“取り返しのつかなかった人”に口無し。振り子が止まってからつまりは死んでから同じコメントは死んでも出来ないはずだ。だから、全員がなるべく初めから苦しまず悲しみもしないような各々の『揺れ』を恒常的に発生させる方法を私は個々に対し探し求め続けている。その静かな『揺れ』は、俗に言われる「普通」や「平凡」や「無事」といった状態に収まるのかもしれない。その状態をつまらないと感じるようなつまらない心にだけはなりたくないとウンチョスはウンチョスなりに思っているのです。ただ元に戻るが、「陰影【−】を消す方法は幾らでもある、故に夜【−】あり」と五月蝿くも伝えておきたい。何よりこうして今読んで頂いている方の中にどうしようもなくもがき苦しみ悲しんでいる方がいるとしたら、私はあなたの痛みや悲しみを無効にする術を悔しくも持ち合わせていないが、あなたは今絶対に“取り返しのつく人”である【+】だけは必死に伝えておきたい。この命を懸けてもいいと思っている。


[約4秒前の強烈な金木犀の匂いを、もう思い返せないぐらい大人になっていた]

 そして、7年振りにカラオケに行った。勿論、1匹で。いや、ここは1名で。歌える歌が1曲も無いなら適当に作って歌ってしまえばいい。その事実に少なくとも初めて外界で歌を歌った2006年の5月の時点で気付いていたはずだが、この日人生初めての1人カラオケたる内なるものに渾身の力で両頬を叩かれ=本当に=気付かされた気がした。この世界に音楽があると聴いてしまった以上、音楽があって=本当の本当に=良かった。 
 この時季冬眠の支度に追われ心を亡くしそうになる今年も、約1秒後には忘却するであろうクリスマスの匂いが、街のあちらこちらの空中から放たれ始めている。どうしても嫌いにはなれない匂いが私には幾つもある。それも良かったと今なら言える。



*あとがき*

 自宅近くの回転御寿司屋さんの幟にプリントされた旬の『さんま』の文字が、木枯らしの悪戯で翻って『ちんま』に見えて仕様がないオレの電脳、未だ思春期。そして、生涯春を思ふと秋刀魚のボディーに映る童貞に誓う。